虚無から美へ

ロラン・バルトミシェル・フーコーに影響を与えた詩人、ステファヌ・マラルメ井筒俊彦氏の『意識と本質』において彼を描写する文章が分かりやすかったので、記録。

語的意識の極北。凍てつく冷気の中で、コトバは空しい戦慄となって沈黙のうちに沈もうとし、親しげな眼差しの日常的事物はことごとく自らを無化して消滅する。虚無。一八六六年三月、カザリス宛の手紙でマラルメは、「仏教を知ることなしに、私は虚無に到達した」と書いている。そして、この底知れぬ深淵が私を絶望に曳きずりこむ、とも。

マラルメのこの万物無化の体験に、何か精神錯乱の一歩手前といったものがあり、狂気の匂いが漂っていることは事実だ。だが、虚無が彼の辿りついた最後の地点ではなかった。虚無の絶望の後に開ていくる世界があった。早くも同じ一八六六年の七月、同じカザリスに宛て、「虚無を見出した後で、僕は美を見出した。。……僕が今、どんな清澄の高みに踏みこんだか、君にはとても想像もできない」と彼は書く。虚無体験には、思いもかけず、新しい存在肯定へ向かっての窓が開いていたのだ。いかに非人間的な、奇怪な存在肯定で、それがあったにしても。

ポール・ヴェルレーヌが書いた評論集とマラルメ自身の詩集『イジチュールまたはエルベノンの狂気』も入手した。

存在という虚像について

動物は、人間のように色を見えていない。犬は、紫と黄色は目に映るが、赤をグレーにしか見えない。猫も、青と黄色と緑しか見えないと言われている。つまり、実際、物に「色」という属性なんて存在せずに、光の反射が網膜に映った時に起きる現象でしかない。光と網膜の相互作用であり、実際は存在しない概念であった。「色」というのは虚像であり、人間の共同幻想とも言えるのではないかと思った。

本当は何もないところに何かあるかのようにわれわれの意識が妄想し出したものーーそれが経験的世界の一切の物事のあり方の真相。(唯識思想ーー『意識と本質』)

中世インドの哲学者シャンカラも同じようなことを言っていた。

物事が、「存在」のあるがままの、真の姿ではなくて、実はそれらは絶対無分節であるものが、われわれ普通の人間の表層意識、「......の意識」を通して屈折し、歪んで現れた偽りの姿、虚妄の映像である。(『意識と本質』)

なぜそう見えるのか?

本当はないものなのに、あたかもあるかのように見えている。あるかのように見えるのは、われわれの経験的意識が、そこに名すなわち語が意味的に支持する「本質」を妄念して、それを一つのものとして立てるからである。(『意識と本質』)

深海に沈む無響、その向こうへ。

響木ゆうという人格。私にとっては、救済の意味が大きかった。本職で5年間がむしゃらに働き、経験してみたいことはほぼ経験し、手にしてみたいものもほぼ手に入れた。しかし、この頃カレンダーを見ると、未来の日付がどうしようもなく遠く見える。2月24日の今も、3月の日付を見ると、僕、そこまで生きられるのだろうかと、リアリティを掴めない感覚に陥ってしまう。

その前まではとにかく、曲をつくること以外、穏やかさを得られなかった。外は競争社会で資本主義。気を緩めると激流に流されてしまう。毎日生産しろとすべての人に集中攻撃されている気がした。全身の筋肉も、24時間張り詰めた状態。

初めて心療内科にかかったのは去年の10月頃。一人ファミレスでギャン泣きしながらさすがにこれはもう持たないと悟った。記憶力集中力言語力理解力の低下によって、症状さえ伝えられなかった印象があった。医師と上手くコミュニケーションできなかったため、1ヶ月かけて3名も違う医師と話をし、最終的に、自覚症状に概ね合致したお藥と出逢った。過剰なドパミンを抑え、不足しているドパミンの働きを強める、アリピプラゾールという藥。

去年アップした『無響』というタイトルのピアノ曲のシークエンスは、自分にとっては外の激流からの逃げ場だった。シンプルな曲の構成で、自分の荒ぶる精神状態をなだめるのが目的でもあった。無響という言葉も、不要の騒音雑音を隔離した安らぎを意味していた。しかし、その成れの果てに、世の中の音楽をほぼ聴けなくなった。複雑な構成の曲を読み解けないので、蜘蛛の網のように音の糸がいつまでも心に絡みつく。感情が煽られやすいので、聴き始めると悲しさや怒りの頂点までヘビーローテションを止められなくなる。

このような感情の起伏を、段々と手に負えなくなってきた。無響という言葉も、別の意味になってきた。周期とリズムを持って襲ってくる絶望と意味のなさ、そして希死念慮。ようやくその輪郭を認識し始めた。無響は、無限の暗闇に沈む時間を意味しているのではないかと感じた。すべてのエネルギーを奪われる真空の時間。生きるのも死ぬのも気力がなかった。喉が乾いているのに、テーブルにある水に手を伸ばせないような。一人で深い海に沈み、何も聞こえず何も見えず、身動きも取れない。

そんな半年間を過ごしていた。音楽を作ることで自分を救済することすら怠っていた。そんな半年を過ぎた今、ようやく、歩みを一度止めて休まないと、と、<正常な>判断ができるまで<回復>した。FL STUDIOはしばらく開かなかったので、昨日開いてみたらずっとエラーが出て声を出して嗤ってしまった。自らの価値観、世界観、パーソナリティーの土台が空洞だったので、それを再構築して、その上で、響木ゆうという人格は一体何を意味するのか、もう一度考えたいと思った。